AIは、軍師を生み出すのか。軍師の解像度を上げるのか。

AI界隈の違和感02

私の大好きな映画、ジョン・ウー監督の「レッドクリフ」を観ながら、最近のSNSでよく見る「AI界隈」の記事の違和感を考えてみた。

最近、仕事の中で「AIを使いますか?」と聞かれることがある。

もちろん、私は仕事でAIをかなり使っている。
しかし、その質問の奥に、少し引っかかるニュアンスを感じることがある。

「ということは、今やっていることはAIにすべて考えてもらっているんですね?」

そんなふうに、こちらの仕事の価値まで低く見られているように感じることがある。

これは、おそらく世間がまだ、AIと人間の思考の境界線や役割をしっかり理解できていないからだと思う。

AIは何でもできる便利ツール。
AIに聞けば、答えが出る。
AIを使えば、文章も企画も戦略もできる。

そんなふうに見えているのかもしれない。

SNSでも、AI活用に関する発信をよく見る。

AIで文章を作る。
AIで企画を考える。
AIで分析する。
AIで効率化する。

もちろん、それ自体は素晴らしいことだと思う。

ただ、少し違和感がある。

AIを使うこと自体が目的になっていないか。
AIで“すごそうに見える言葉”を作ることが、ゴールになっていないか。

AIの使い方を語っているのか。
それとも、AIを使って自分の仕事の解像度を上げているのか。

この違いは、かなり大きいと思う。

そんなことを考えながら「レッドクリフ」を観ていると、ふと思った。

もし、諸葛孔明や周瑜のような軍師たちがAIを使っていたら、どうなっていただろう。

おそらく彼らは、AIに戦略を丸投げすることはしなかったと思う。

地形、天候、兵力、補給、敵の動き、味方の心理、民の感情、政治の流れ。

それらをAIで整理し、いくつもの仮説を立て、勝つ確率を高め、負ける可能性を減らすために使ったはずだ。

黒田官兵衛のような軍師であれば、さらに人の欲、権力構造、裏切りの可能性、交渉のタイミングまで読み解くためにAIを使ったかもしれない。

でも、最後に決めるのはAIではない。

どこで勝負するのか。
誰を信じるのか。
誰を動かすのか。
どこで退くのか。
どんな大義で人をまとめるのか。

そこを決めるのは、軍師自身の思想であり、経験であり、人間観であり、胆力だと思う。

AIがあれば、誰でも孔明になれるわけではない。
AIがあれば、誰でも官兵衛になれるわけでもない。

AIは、軍師を生み出す魔法ではない。
本物の軍師が持っている思考の解像度を、さらに上げる道具なのだと思う。

これは、今の仕事にもそのまま当てはまる。

人には、その人の思想がある。
経験がある。
技術がある。
現場で積み重ねてきた判断がある。
そして何より、リアルな人間関係がある。

それらがあって初めて、
AIで整理したものが、戦略になり、戦術になり、実際の行動につながっていく。

机上の空論を、AIでもっともらしい言葉にすることはできる。

でも、それを現場で動かし、誰かと信頼をつくり、成果に変えていくのは人間の仕事だ。

AIを使えば、もっともらしい文章は作れる。
それっぽい企画書も作れる。
それっぽいマーケティング論も語れる。

しかし、それだけでは現実は動かない。

現場で人と向き合い、信頼関係をつくり、戦略を戦術に落とし込み、実際に行動して成果につなげる。

そこは、やはり人間の仕事だと思う。

AIは、神になるための道具ではない。
自分を大きく見せるための武装でもない。

私は、AIを「丸投げする道具」として使っているのではない。

自分の経験、思想、現場感、違和感、判断を整理し、
自分の仕事の解像度を上げるために使っている。

考えるのは人間。
判断するのも人間。
動くのも人間。

AIは、その精度と速度を上げるための相棒である。

AIを使うことがすごいのではない。
AIを使って、現実をどう動かすか。

これからの時代、本当に問われるのはそこだと思う。

最近のAI界隈の発信に、少し違和感を感じるのは、
私だけなのだろうか。

AIは、知識武装のための道具ではない。
自分の思想と現場を、戦略に変えるための道具だと私は思う。